【「南京大虐殺記念館」改修】朝日新聞の本多勝一氏の写真が撤去 吉田証言疑念恐れ?[12/15]
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1513328717/

【チャイナネット】日本人の「南京大虐殺」に対する認識(2-3)被害者数30万人定説に 朝日新聞本多勝一記者が連載してベストセラーに[03/06]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1331022013/l50
【中国】朝日新聞が認知させた「南京大虐殺」から76年、日本人の大虐殺に対する考え方とは―中国メディア
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1386994840
朝日新聞の中国へのおもねりが「南京大虐殺」を独り歩きさせた
●検証なしの聞き取り記事『中国の旅』が火をつけた
評論家 片岡正巳 (小学館『SAPIO』98年12月23日掲載)
http://www.history.gr.jp/nanking/kataoka.html
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1389226112/75-76n

月刊正論2016年4月号
朝日新聞解体新書vol.13
歴史戦争でいまなお仇なす本多勝一「中国の旅」
近現代史研究家 阿羅健一

 林彪失脚の反対報道が朝日新聞でなされていたちょうどその時期、それを遥かに上回る虚報が朝日新聞から流されていた。
「中国の旅」と題する本多勝一記者の連載である。
「中国の旅」は昭和46年8月26日に始まった。10回目の9月13日に林彪が失脚して林彪の虚報が始めるが、それと手を携える
ように「中国の旅」の虚報は続き、12月25日まで40回続けられた。第1回の見出しが「現地に見る暴虐の跡」とつけられた
ように、「中国の旅」は日本軍の中国での残虐行為を報じたもので、平頂山事件、万人坑、南京事件、三光政策の四つから
なっている。これらは時も場所も異なっているが同工異曲である。
 なぜそうなのかといえば、作り話だからである。45年経ったいま、「中国の旅」が虚報そのものであることは完膚なきまで
に証明されているが、その記述はいまだ教科書のもととなり、対中外交の基礎知識をなしている。そのことに思いいたすなら、
連載がなぜ生まれ、どんな嘘で成り立ち、朝日新聞はどう対応してきたか、あらためて振り返ることはきわめて重要だ。

 広岡だけが評価したわけではない。広岡とともに虚報を問わない体制を朝日新聞に作った論説顧問の森恭三が単行本「中国の旅」
の序文を書いた。書いただけでなく本多の取材目的にこう共感を示した。
「本多君の中国ルポは、かつて日本軍のおかした残虐行為の数々を徹底的に究明するのが目的である。この発想は私自身にも、
ずっと以前からあった」
 社長と論説顧問がこうだから一方的な取材をできたのだ。

 現地を知っている朝日新聞OBから非難が来て、『朝日新聞社史』は「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社
に殺到した」と記述しているが、それが実情だ。
 こういった抗議にどうしたかといえば、本多と朝日新聞は無視するか、まともな返答をしないかだった。

 撫順炭鉱の久野の抗議に対しては、昭和61年、本多勝一から「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、
抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか。中国側との間で何らかの合意点が見つかったときには、
それをまた採用したいと思っています」と馬鹿にした答えが来た。

 無視を続けることができなくなった本多は平成2年9月号の月刊誌『正論』で取材目的、取材方法、抗議などについて答えた。
「『中国の旅』は、『中国の視点』を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」
「問題があるとすれば中国自体ではありませんか」
 本多は「中国の旅」のなかで「中国側の取材によって」と書いていたが、取材ですらない、と答えたのである。

 つけくわえれば本多は昭和60年に「ウソへの責任追及もされないのがまた日本的だ」と書き、日本社会のありかたを批判
したが、本多の態度こそ本多が批判しているものではないか。
「中国の旅」についての批判を歴史論争と称する人がいるが、そう称するのは間違いで、これは歴史論争でなく真贋論争なの
である。

 虚報を厭わない土壌は新聞社の外にも流れた。平頂山事件、万人坑、南京事件、三光政策が次々と教科書に掲載されだした。
架空のことを生徒は教えられた。小説や研究書でも取りあげられた。活字によって歴史は成り立つが、その活字を紙のように
軽いものにしたのが「中国の旅」である。(以上、抜粋)