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○毎田周一先生訳
824.
人々は「これだけが清らかだ」と主張して
他の教えは清らかでないないという――
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている

「パスーラ経」のあらすじは特定な見解に固執して論争することの無意味さを教えるもの。ブッダは最後にパスーラに呼びかけて、煩悩を離れた者(ブッダ)と論争することが出来ないことを示唆する。
注釈書によるとこの経の因縁物語は、遊行者パスーラはサーリプッタ長老と欲望に関する論争に負けたので、仏教僧団の中で出家した。しかし指導する師僧を議論で負かした。そして今度はブッダに論争を挑んだ。
彼が祇園精舎のブッダのもとに行くと、神の力で一言も口をきくことが出来なくなった。それに対してブッダがこの経を説いたということ。

「ここにのみ清らかさがある」と言った時点、この見解は仏法(真理)ではないと、毎田先生は解説する。
「ここにのみ」ということは「ここ以外のもの」との対立を作る。対立すれば、異なる見解が現れるからである。異なる見解が現れると論争が現れる。

○毎田周一先生訳
825.
この人達はひとといい争うことが好きで 集りの中に入ってゆき
互いに反対して相手を愚かものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている。

○毎田周一先生訳
826.
人の集りの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないように心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る

議論好きが、論争に参加した時の心理状態を細かく描かれている。

○毎田周一先生訳
827.
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと
その論争に負けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を負かしたのだ」と口惜しがる

○毎田周一先生訳
828.
こんないい争いが道を修める人達の間に起こると
彼等の中に勝つと負けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならぬ
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである

真理を求め修行する人は、他人の評価でなく、自分自身で真理を発見しなければならないから、他人の評価に依存する態度は修行の妨げになる。
真理の発見は心の変革と結びついた事柄。他人の評価ではなく、また何ものにも依存しない心の状態の時、そこに真理が現れる。その意味で論争の無意味さを本当に知った時、真理が理解できる。

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